シュンの日記なページ

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譲歩せず

 さて、帰るよ、とは家族に言わない。もう行くよ、と行って我が家を後にする。帰るのは我が家であって、単身赴任先のさいたまのワンルームマンションは、ぼくが帰る場所ではなく、仕事をするために出かけてゆく場所である。こんな微妙さに拘ることを譲歩してはいけない気がするんだ。

 

 昨日今日と、携帯の新機種から、はてなDiaryへ書き込んだ。直接書き込みはできるが、本の商品紹介はできない。試しにやってみたらせっかく書き上げた日記が(保存前であったせいか)上書きされてしまって、この野郎、と、はてなに苦情電話をかけそうになった。さらに画像を添付しようとするとメールで送信というかたちになる。携帯バージョンは不慣れだと少し勝手が違い、戸惑う。

 今回の帰省では移動時を中心にグレッグ・アイルズの『血の記憶(上)』を読了。荷物を軽減するため、いつも文庫本を読むことにしているのだ。

 さいたまに到着し、夕飯を済ませた後に、志水辰夫『ラストラン』読了。

 ラストラン

 ちょうど『深夜ふたたび』や『行きずりの街』の頃だから、この作家の偉業とも言える初期三部作(『餓えて狼』『裂けて海峡』『背いて故郷』)を成し遂げ、ある意味作家が書き慣れ、次に何を書くかという最も難しい時期、それは熟成期とも言われつつ非常に危うい一時期であるようにも思われるのだが、そうした時期、彼はこの本にある作品たちを集約した短編集にせず、自らお蔵入りとし、これまで封印してきたそうである
 作家は帯でこう言う。
 「いまの自分がうしなってしまったもの、若さや情熱、ほとばしる情感や熱気が全編に立ち込めていて、老いの淋しさを逆に確認させられもした」
 どの作家にも共通した思いのようなものがあるのかもしれない。あらゆる人間があらゆる自分の仕事に対し思うことであるのかもしれない。その無常観が作品や仕事に深みを与えてゆくと見ることはできるのだが、やはり喪失の感覚というのは、若き頃に予感していて、その予感が青春に影を落とし、ストレートに若さを喜びきれないというのも、人間らしさであるような気がする。
 だから人は、若書きと評されようと、若き頃は果敢に書き、やがて、失われた時間を惜しんで、深く熟成した内省的な言葉を紡ぐようになるのだろう。そしてある意味の割り切りと、職人的な無我の境地。そんなものに辿り着いた時、かつての読者が彼をどう読むのかというあたりが、作家としての持続性の秘密であるような気がする。
 確かに、本書を読むと、あの頃のシミタツ、あの頃悶えるように読んでいた情念の作家志水辰夫の輝きっぷりの一片がそこかしこに見える。そんな時代に読者である自分がどうであったか、というところまで突き刺さってくるのが、こうした古い作品集のある意味凄みであると言えるのかもしれない。