雛人形が来た頃のこと
雛祭り、雛祭りと、カーラジオが反復するので、一日中札幌を走り回っていた今日のぼくは、やや食傷気味である。
女の子のいない家庭で育ったせいで、ぼくは雛祭りにはとんと縁がなかった。ひなあられだけをひたすらぼりぼり食べていたような気がする。ひなあられに「ぼりぼり」という擬音は少しおかしいかもしれないが。
妻が、後生大事に雛人形を抱えて、ぼくのアパートに転がり込んできた頃を思い出す。雛人形は小さい頃からの宝物なのだと彼女は言う。自分の住まいに雛人形がやってきたという経験がなかったので、不思議な感じがしたものだった。今、その雛人形は我が家にはない。確か人形の供養かなんかをしてもらって捨てちゃったのだと思う。
妻は、本当に何もかもを潔く捨てる。
おかげで、あっと驚くようなものまで捨てられてなくなってしまうことがある。でもその古い雛人形を捨ててきた時には、心中つねづねその不気味さを密かに敬遠していたぼくは、さっぱりとした気分になれたのだった。いつも仕舞われている人形なのに、押入れの中で眠るその存在感は、それなりに威圧的なものだったのだろう。それだけぼくの側が雛人形というものに、免疫ができていなかったせいもあるのかもしれないが。
我が家にはやがて男の子が生まれ、亡き父が、その子の成長に伴って、鳴子のこけし、鴻巣の武者人形、といったものを贈ってきた。
ぼくは浪人時代に日本橋横山町の衣料品問屋で長期のアルバイトをしていた。その頃国電の(まだJRではなかった)最寄駅であった浅草橋に降り立つと、人形専門店、というのですか、あれが原色の赤も鮮やかに、一年三百六十五日、ずっとずっと雛人形や五月人形を飾り立てていて、それらを眼にすることにいい加減飽きていたというのもある。とにかく人形の類いはぼくはあまり得意ではないのだ。
我が家では息子が中学生になってから、五月人形を出すのをやめてしまったようだ。まさか妻は人形を捨てたのではあるまい、と思う。それとも昨年、父が亡くなったから、今年あたり、思い出の武者人形をいっそのこと捨ててしまうのかもしれない。
捨てることができず、家中をものでいっぱいにして、身動きの取れない状態になっている実母もどうかと思うけれど、過去に少しも未練を残さず、次々とかつて大切だったものを捨てて、現在だけに身を置こうとする妻のドライさにも、正直ついてゆけないところがある。
母は、思い出があるから捨てられないのだ、と言う。弟の部屋は、弟が生きていた頃のままに、もうかれこれ十八年も弟の思い出でいっぱいになってそのまま残されてある。時々その部屋からジャズのCDを持ち出して、札幌に持ち帰り、ぼくは音楽に耳を傾ける。
母が死んだ時には、ぼくは弟の部屋の何もかもを、ドライに捨て去ることができるのだろうか。弟の愛用したサクソフォンを、クラリネットを、フルートを。それとも思い出を抱きしめるようにして、沢山のガラクタと一緒に途方に暮れてしまうのだろうか。よく、そのことを考えてみるのだが、いつも答はわからずじまいである。