シュンの日記なページ

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セピア色の場所へ

 ホワイト餃子が切れたので中毒者のぼくは補充に出かけねばならない。最初は久喜店が割と近いのかと思ったが、そのうち昔の行きつけの床屋にゆくために月に一度北本へのプチ旅行をするようになった。そのついでに鴻巣まで足を延ばしてホワイト餃子を定期的に買うようになった。だけど、今日は思い立って、東へ。そう、越谷店へ出かけることにしたのだ。
 越谷店があるのは東武伊勢崎線蒲生駅から駅前通りを蒲生商店街の方まで入って少し右に入ったところ。
 蒲生に行く道路、目立つ日本エレベーターのプレゼンビルが健在であった。

 

 ホワイト餃子は小舎掛けみたいなところでやっていたのに、今では立派なカフェみたいな店になっている。オヤジさんが健在でレジをやっていたので、いつ新しくしたんですか? と聴くと、7年くらい前だという。今日は、若くて綺麗な女性ウェイトレスが入口で招いてくれて案内をしてくれた。嘘のように変わった。鴻巣店は昔ながらなのになあ。ここの店は、ホワイト餃子という一品だけを売ってここまで成熟したのかと、考えてみれば驚きである。ちなみにぼくの前の主婦は150個、ぼくは80個を買った。もちろんテーブルについて食べている人もいる。16時過ぎからの二時間ばかりが店で焼いてくれるシステムっていうのは、昔と変わらない。ちなみに鴻巣店は昼も午後もいつでも焼いてくれたし、ラーメンも美味しかった(今ではやめてしまったけれども)。西新井店では狸うどんとの組み合わせが学生時代のぼくらの定番宿酔い対策だった。

 

 妻が結婚前の一時期住んでいたのがこのすぐ裏の木造アパート。こちらも三階建てのこぎれいな賃貸マンションに変わっていた。

 


 ちなみにあまりお洒落ではない古びたペットショップが近くにあって戸外でいつもワラビーがいたのだが、その店ごと、もうなくなっていた。

 蒲生商店街は懐かしい町並みのままで時代を超越していた。一人暮らしを始めたばかりだった妻が、もちろんまだ独身の頃、角の電話ボックスから実家に電話をかけ、しんみりしてしまったのはこのあたりだったな、と思い出す。

 

 ついでとばかりに、隣の駅新田に移動する。ここぞぼくが学生時代から二十代のほとんどを過ごした町と言ってもいい。ぼくの住んでいたアパートはそのまま健在。イトーヨーカドーが隣にあってとても便利だったが、酔った友達が部屋までコカコーラの文字が入った赤いベンチを店の前から運び込んでしまったり、ぼくはぼくで小林麻美の化粧品の等身大看板を運び込んでしまったり、店のカゴをそのまま部屋に持ち帰ったりと、本当にヨーカドーさんには迷惑をかけたのであった。この部屋では、おでんの具材屋の二階だったせいか季節をものともしない巨大ゴキブリと、固定したミニ扇風機しかなかった熱帯夜には、本当に悩まされた。

 

 新田時代に通っていた店は、どんどん消えていってしまった。新田駅直近の「石狩」のお母さんのことを思い出すと未だに涙が出る。結婚する直前に行っていた店「花すみれ」は健在であった。「彩」という店からオーナーが変わったのだが、「石狩」の紹介でずっと通っていたのだ。「花すみれ」のママにも閉店後、いろいろ連れて行ってもらいご飯をおごってもらうなど甘え切っていた。

 

 少し給料がよくなってきて、新田から東川口に引っ越した。3万5千円の家賃から5万円の家賃へ。その頃住んでいたアパートはとっても広かったのだが、すぐに結婚し同居することとなり、蒲生の家内のアパートも、ぼくの東川口のアパートもわずかな期間しか住まなかったと思う。

 二人の新婚時の新居で、ここで子供が生まれるまでの8年ほどを二人で過ごしたのだ。アパートはまだそのまま目の前にあって、今の若い夫婦か家族が住んでいる気配があった。時代はめぐるのだ。

 

 セピア色に色褪せた思い出を夕陽が飾る。帰り道、見沼田んぼから見た秩父の山と新都心の高層ビルが地平を限る。