家族とともに
今日も母を見舞う。今日は家族でゆく。昨日より長くいられる。話もできる。
でも辛そうである。呼吸が辛そうであり、起きていることが辛そうである。つまり生きていることが辛そうに見えるのが、なんとも見ていて辛いのである。
話をしているのはコミュニケーションをとりたい、一緒にいたいという最小限の歓びのためであるけれど、話をして起きていること自体が辛そうである。眠りたいと言う。
お茶を差してあげると、まるで特別なご馳走を口にしたみたいに、美味しいとゆっくり言う。そんなに美味しいんだ。美味しいよ。
やがて頭の中の整理された状態が崩れ始め、譫妄状態になる。25年前に、弟の命をこの腕の中で掴みそこねたとき、弟が口走ったいろいろな奇妙な言葉のように、論理が失われ、言葉は無意味に溢れかえる。
病院を出て、弟の墓にゆく。家族で、もう一度彼岸の墓参りを。前回より綺麗な花束と倍の線香を持って、今日はよく晴れた墓地で静かに弟の墓に手を合わせる。
午後、妻子は、息子の進学候補である大学に電車で出かける。
夜、新都心のアルピーノでふたたび合流する。妻の両親とフランス料理の夕食だ。春のディナー。ワイン。相変わらず腕のいい店だ。フランス料理と言いながら和と混交させているところが素晴らしい。
妻と両親はタクシーで、ぼくと息子は、彼の将来のことを話し合いながら、節電で暗くなった夜道を歩いて帰る。