シュンの日記なページ

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札幌の美味しいラーメン屋

 関東から旅行でやってくる札幌は素敵なものだ。わくわくするほどだ。
 北海道出身者は、そういう夢見る旅行者たちに必ず知った風な顔をして「ラーメン横丁はまずいよ」と言うのだった。
 でもラーメン横丁で食べる札幌味噌ラーメンは、絶対に関東にない味だから、それは札幌らしさを味わえるものであるしあらゆる意味で初めて口にする味なのである。
 ぼくが博多で九州豚骨ラーメンを食べるときには、これは関東にも札幌にも絶対にない味であり、麺の細さであり、ふうん、なるほど、こういうものなのかあ……としんみり旅情にひたることができる。美味いとか、まずいとか、そういうレベルの問題ではないのだ。
 だが札幌の人は、人生に一ニ度しか札幌に来ない人が「札幌のラーメンを食べたい」と言えば、「この辺に美味しいラーメン屋はないんだよねえ」と無神経に応えてしまうのである。札幌の人が馬鹿正直でストレートで歯に衣着せないという傾向ももちろんある。
 例えば先週の話だ。
 会社の倉庫の消毒マシンを東京から調べにやってきた人間が、「この辺でラーメン屋はありますか」と二十代前半の社員に聴いた。社員はこともあろうに、「近所に味の時計台というラーメンチェーンがあるけれど、大して美味くないので、とてもお薦めできない」と答えたのである。さらに言うには「近所に山岡家というラーメンチェーンもあるけれど、人によってすごくまずいと言うんですよねえ」と顔をしかめて答えたのだそうである。当然、ぼくは彼をとっちめることになる。
 東京の人に札幌味噌ラーメンの味の基準はないという大前提を彼がわかっていないからだ。これは無神経である。まず、札幌ではどの店でどんなラーメンを食べようと、それは札幌の味であり、関東ではあり得ない味なのだという認識がない。
 ラーメンについて、どこの店のものが美味い、あるいはまずい、という札幌在住の人のレベルの問題ではないのだ。この場合、標準的な味のラーメン屋を普通に紹介してあげれば、それでいいのだ。
 味の時計台というラーメンチェーンは「時計台」という名前がついているだけで、関東の人を納得させてしまうものがあるだろう。食べてみればそれは確かに関東にはない味だ。食べたこともない味だ。これを「美味しいよ」と紹介してあげれば、なるほどこれが札幌味噌ラーメンの美味しさなのだな、と思えてくるものなのだ。何しろ札幌味噌ラーメンのいろいろな味を一度の来札くらいで味わってしまうことなどできないのだから。
 そういう内容のことをぼくは社員に説明したつもりだったのだが、その説明は何としても理解されなかったようである。ぼくは東京のラーメンの味を懐かしむ者なのだが、東京に出れば、札幌のラーメンの味はないと確信するために、やはり札幌の味を逆に懐かしんでしまう者でもある。まるで両者は別の国のもののように違う味のラーメン文化なのである。どの店に入ろうと、それが東京のラーメンなのか、札幌のラーメンなのかは、はっきりと違うということがわかってしまう。だから、それぞれの味をそれぞれの土地で味わえばいいのだ。よほどのまずさでない限り、ぼくは普通のその土地のラーメン屋に人を連れてゆく。それ以上でもそれ以下でもない。ラーメンの蘊蓄、ラーメン屋評論などは不要なのだ。
 ちなみにぼくの好きなラーメン屋は、南稚内の流華という店、函館のバスラーメン、月形のむつみや本店、それに中標津のマルヤ食堂などなどである。どれも、そこのラーメンが美味いとか、まずいとか言った、せこいレベルには絶対になく、とにかくその土地に出かけなければ、絶対に味わえないものなのだ。それだけの個性、いや、風土があるのだ。それこそがラーメンの存在意義、ではないのか?