シュンの日記なページ

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再会

crimewave2008-07-12

 朝、大宮駅からバスに乗る。大学生たちが学校へ通う時刻なのだろう。土曜日でも授業はあるのだったっけ。
 老人ホームに短期入所している母を訪ねる。最初にケアマネから入所に至った事情を聴き、最早在宅での独居生活は不可能であることを理解する。認知症も進んでおり、体のアクティビティも低下し、最早十分に立ち上がれず、杖を突いて歩くこともできない。82歳。昨年亡くなった父より4歳年下である。
 居室に母を訪ねる。眠っていたところを声をかけ起こし、車椅子に移譲させ、窓の方に向けて、深い緑の木立を見つめながら、話をした。いろいろなことが母は思い出せないでいる。例えば、息子の訪問がいつであるかということを忘れていたから、母は驚いていた。
 白内障で目が思うように見えず、ぼんやりとした形と光と色だけが見えるらしい。
 お前の顔も見えないよ、と母は諦めたように呟く。
 十五分くらい前のことを母は次々に忘れてゆく。いろいろな疑問が頭のなかに湧いてくるらしく、それにぼくは丁寧に答える。母のこれほど深い認知症に初めて立ち会っているが、覚悟をしてきたことだ。少し、自分の中のどこかが痛いような思いがする。
 それと同時に苛烈であった性格の母が、ようやく、この世の雑事から逃れて、平和な心を取り戻しているらしき様子を歓ぶべきと感じる自分もいる。
 「もう、家には帰りたくない」母は言う。「ここにいると楽だし、それじゃいけない、とは思うんだけれども、でも家に帰って自分でやっていけるという自信もないしね」
 古い想い出もそれがいつの頃のことなのかわからない。だが、強い認知症ではない。
 自分の年齢がまだわかっている。息子のことを理解している。自分の置かれた状況を理解している。しかし、残された時間はそう多くはないかもしれない、という危機感をぼくは感じる。
 母と別れてから、さらに老人ホームやケアハウスへの申し込みを済ませる。
 その後またバスを乗り継いで、実家に向う。
 乗り継ぎの合間にラーメンを掻き込んだが、これ以上ないほどまずい。冷房の効いた店を出ると途端に汗が噴き出す。後で報道されたが、この日の埼玉県は今年最高の猛暑で34度あったそうだ。
 我が家に辿り着く。汚れ放題で、最早誰も住むことのなくなった家。
 ぼくは中学二年から大学一年の途中までここで育った。庭に建てたプレハブ部屋で、4歳年下の弟と二人で寝起きした。思えばわずか5年ほどのことだが、今振り返ると、10年も20年もそこで過ごしたような思いがする。
 家中を探したが、家の権利書が見当たらない。母もどこに仕舞いこんだのか覚えておらず、結局、見つからずじまいだった。冷蔵庫の中や、母が過ごしていた6畳間に置かれている食品をポリ袋に仕舞いこんで、電気を止め、蓋の開いた飲み物をシンクに流し出す。片麻痺独居老人のヘルパー頼りの生活は、見渡すだけでも、とても無理があったように思えた。
 家の鍵を閉めて、強烈な陽射しのなかに飛び出す。境内にある集会所からカラオケ教室の声が聴こえてくる。
 バスを乗り継いで、大宮駅に戻り、そして空港へ急ぎ、札幌に帰る。
 また、すぐにあの家に戻らねばならないだろう。二度と誰も住むことのなくなったあの家を取り壊し、土地を地主に戻さねばならない。その前に、ゴミをまとめ、廃棄し、家の中を引っ繰り返して、権利書を探し出し、弟の遺した楽器類を持ち帰らねばならない。途方もない作業が前方に控えているような気がして、思わず、くらっときた。