不気味なる者
絶対に謝らない奴っているのである。悪いと指摘されても、今は直していますから、と答えたりする。皆に迷惑をかけてきたよね、と指摘されても、皆とはだいぶうまくやれるようになりましたからと勘違いしていたりする。
平和な頭の持ち主である。
人は自分をそうは嫌っていないと思える人である。人からの信頼度は何パーセント? と聴くと、50%くらいでしょうか、と答えたりする。それなら相当信頼されているよねと思えるのだが、そういう人は、だいぶ信頼を失ったけどまだまだ自分は捨てたものじゃないと安心していたりする。
信頼を失うということは、信頼度が0%になった、あるいは-100%くらいになったことを意味するのではないのか。
このように洞察力を失った人が実際に存在したりする。
「洞察力」という言葉を習ったときのことをぼくはよく覚えている。そのときの例え話から言えば、洞察力とは、人の感情に成り代わって考えることのできる能力のことだ。その洞察力が滅びようとしている世界を、目の当たりにするとさすがにショックである。
感情が失われていて、楽観的であり、のほほんとして、痛みを知らない。だから、人の怒りを受けてもこたえない。反省するということもあまりない。改善しようと思います、などと奇麗事を並べ、謝罪という気持ちがどこを突いても出てくることがない。
そんな人といくら話しても、己が非力を感じさせられるだけだ。暖簾に腕押しとは、こういう状況を言うのだろう。嵐の後、おこられちゃいましたあ、と照れ笑いする。ほっとして分煙室で煙草に火をつける。本当に、人間として不気味だ。