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猫の記憶 II

 昼間出かけたときにいい風景に出会ってシャッターを切ったのだが、車のフロントグラスに酷い汚れが着いていたのが逆光に浮き立ってしまい、絵がすっかり台無しになった。帰ってきて、さて日記にアップしよう、と思ったのに、こんな結果ではしょげる。

 それほどにはっと思わせる光景、雲の動き、光の舞い、といった大自然の、ある時間、それこそメスで切り取られた瞬間が、世界には満ち溢れている。

 昨日の猫の話だが、段ボール箱で子猫を流す痛みを知る人間は、猫を殺すことはできないだろうと思った。ぼくの子供の頃は犬も猫も、道端の段ボールから拾ってくる存在だったのに、命はとても大事なものに思われた。
 高校生の頃、公園でいじめられている猫を拾った。滑り台を使って子猫を何度も転がしている子供らを追い払い、助け上げたが、時すでに遅し、で、背骨がおかしくなっていた。そのせいか、この猫は成長が止まり、いつまでも小さく、なかなか育たなかった。ぼくはその猫を何年も何年も可愛がり、それなりに育てた。チビトラという名前をつけた。成長の過程で不具になった背骨が悪さをするのか、何度も獣医に自転車で運んだものだった。
 チビトラはそれでも子供を生み、やがて死んだ。その子供にぼくはペケという名前をつけた。もう一匹の子猫ポケは誰かにあげてしまったのだと思う。ペケとポケ。ぼくの弟はペケのことを違う名前で呼んだ。チョロと呼んでいたと思う。お袋は同じ猫をミイと呼んでいた。父は離婚してもう家を出ていたから、この猫の存在をすら知らなかったろう。
 ぼくが三十歳を過ぎて結婚する頃、ペケは唐突にいなくなった。放し飼いの猫は、たいていどこかにいなくなって、そしてそっと死ぬのだ。子供を産む時と同じように、人間の世界から姿を消そうとする。
 数年後、弟が交通事故で死んだ。葬儀の日に撮った庭の写真に、偶然なのか、霊写なのか知らないが、空中にたゆたう香典の煙のなかにペケが写っていた。もちろんそれは煙の形に過ぎない。でも、ぼくら兄弟がナナホシテントウと呼んでいた三色の風変わりな斑点模様が、猫の形に見える煙の中にしっかりと生きていたそのままに現れていた。弟を、きっとペケが、いやチョロが迎えに来たのだ、と母と妻に、ぼくは何の疑いもなく語った。

 8月に30年ぶりの友達に会った。五十を過ぎた友達が、「お前のうちに行ったときのことを未だに覚えているよ」と高校時代の思い出を語った。「ミコという猫がいたよな。ミコ尻尾振れ、というとちゃんと尻尾を振った。お前にはそれが自慢だったんだよな」
 ぼくはその言葉を聴くまで、チビトラの前に飼っていたミコという猫の存在を忘れていた。とにかく、ぼくの家では、いつも動物を飼っていた。犬小屋に大きな犬がいて、朝夕には散歩をする。猫が散歩に付きまとったり、そうでないときは、家の近所のどこかで昼寝をしていた。
 大人になって自分の家庭を持つようになってからはハムスター以外の動物を飼ったことがない。犬も猫も基本的には家の中で飼ったことがないから、現代の環境下ではとても飼い難い。無責任な飼い方はご免だと思ってしまう気持ちがまた重石になる。
 あの頃、犬も猫も、ぼくが餌をあげると美味そうにそれを食べる。ドッグフードなんて高くて買えず、ご飯を多めに炊いてはいつも味噌汁や鰹節をかけて、犬や猫に饗していたのだ。食べ終わると、犬は犬小屋の網の向うに引っ込むが、猫はどこかにすうっと出て行ったり、戻ってきて畳の上で丸くなったりする。そんな風に、とても自由に、ぼくは動物たちと共生していた。
 最大、犬5匹、猫3匹くらいを同時に買っていたのではないだろうか。その頃は避妊手術をする文化など世間にもあまりなかったように思う。ウンコを拾う光景などももちろんなかった。ウンコはしたいところにして放って置く。そんなものは踏んだ方が悪い。
 田んぼと畑、そして原っぱだらけの田舎だったせいもあるかもしれない。だから、犬や猫を飼うことにいろいろな決まりごとというのはなかったのかもしれない。もちろん人間を互いに束縛するような決まりごとだって、今よりずっと少なかったように思う。
 そんな時代、ぼくは捨て犬や捨て猫を平気で拾ってきた。自分の責任範囲で彼らを育てては、彼らの死の都度、何度も何度も懲りることなく大粒の涙を流した。その後、ずっと時間が経っても、ある犬、ある猫の死を思い出しては、今も時に泣くことがあるくらいだ。
 だからこそ、今になっても、その頃と違った形でペットを飼うということができないでいるのだと思う。必要以上にべたべたしたり、本来の動物性を殺してまで愛玩を押し付けるということが、いやなのだ。犬は家族ではなく犬であり、猫は家族ではなく猫であった。それぞれの寿命を一緒の世界ではあってもそれぞれの流儀で生きる。そういう住み分けをしながら、なおかつうまく行くという生活が大好きだった。
 ともに距離を置いて暮らし、それでも互いにどこかで愛情を育んでしまう存在。それがぼくの犬や猫とのつきあいであった。そうした関係を、もう三十年も取り戻せずにいることが、いつも心のどこかで、痛烈な切なさとなって鳴り響く。