シュンの日記なページ

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700円

 居酒屋で勘定を済ませる。何と代金は700円だった。うーん、感動的な数字だ。

 確かに独りカウンターで。ボトルキープしてある焼酎を、無料の氷と水で何杯も呑むだけ。串かつと、スパゲッティサラダだけ。もっと頼みたかったが、これで満腹になってしまったのだ。全日空ホテルでの某所属法人団体の新年会。立食パーティで小皿一枚分の食べ物と、ワイン1杯、ビールもコップ一杯。これで会費は6000円。急いでいたのでタクシーを使ったら2600円。

 要するに仕事で参加した一次会は8600円で、私的に立ち寄った居酒屋は700円だったわけ。

 昔、東武伊勢崎線新田駅に住んでいた。苦学生だったから金がなかった。その苦しい生活を助けてくれたのが石狩という居酒屋だった。石狩出身のモンペ絣姿のほっぺの赤いお母さん、そして交互に店に出る娘二人。いわゆる母子家庭だった。カウンターを挟んで家族のようにしてもらった。煮っ転がしや、キャベツ炒め、サンマを100円で焼いてくれた。味噌汁30円、ご飯60円、納豆30円。熱燗は150円だったと思う。けっこう呑んで食べても700円しか使うことができなかった。だから毎週一度くらいは顔を出した。

 もちろん就職してからもそこに通った。ある夜、店を手伝っていた二女が、嫁ぐことになった。同時に駅の拡張ということでよい条件で立ち退きを迫られた。最後の夜、二女とその旦那になる人と、お母さんと、ぼくとその当時半同棲みたいにしてつきあっていた彼女と、掛布という渾名の阪神ファンの常連客と、6人で店の暖簾を下ろした。お母さんがいつも出してくれていた手作りのお絞りをぼくの彼女に大量にくれた。二人でおいおい泣きながら、お絞りを渡し合っていた。見ていて悲しかった。石狩の母娘たちともう二度と会えないことがわかっていたから。

 石狩の女将さんを、ずっと「お母さん」と呼んで過ごしていた。本当の母以上に、この店のお母さんの料理と会話とで青春を過ごした。独り暮らしの時代をおよそ10年通い詰めた店だった。一回最高額で700円だった。山の帰りには後輩を連れてみんなで立ち寄り、メシをたらふく食って空腹を癒した。酒で赤い顔をして、皆で騒いだ。

 あるときには、常連客のおじさんたちに、女みたいだと長髪をからかわれた。別の時にはお母さんに、もうそれ以上は駄目だと酒の追加を断られた。働くようになってからは、自分で働いた金なら酒をいくら呑んでもいい、と笑顔で言われ、救われた。学生時代だってぼくは自活していたのだが、親の脛齧りだと即断され続けていた。金の問題だけではなかったのだろう。カウンターで酒を一人前に呑むほど大人になりきっていなかったぼくの愚かさを見抜いていたのだろう。

 そんな頃のことを思い出させる今日の700円だった。つい石狩のお母さんの優しい笑顔を思い出しちまった。きついなあ。