救いの場所、優しい時間
グループ企業が集まってそれぞれの会社紹介を立食パーティの場で行った。まあ一種のミニ忘年会みたいなものだ。場所は札幌グランドホテル最上階。
最初の方でマイクを前にぼくは喋った。それなりに、淀みなく、整然と、わかりやすい語りを施したつもり。でも、その後、宴が進行するにつれ、多くの五十代以上の企業北海道代表者らの弁は、軽く自分を凌駕してゆく。何よりも、間の置き方、リズム、めりはり、そしてユーモアのゆとりなどが違う。聴いていて、自然に笑える、心が和む、そうした語り口が、それぞれの人生経験の淵から浮かび上がってくる。
語り口の向うには、その人が過ごした時間の長さが浮かび上がり、その人の抱える重く大きなことどもが、影となる。それらは一日で成されるものではなく、多くの人生の襞を感じさせ、深く、奥行きのあるリズムである。圧倒される何かである。
そうして、年上の人たちからもたらされる重力によって、すっかりへこたれてしまったぼくは、その後、独りになる。地元の行きつけの店にて、見慣れた面々と、馬鹿話をして呑みなおす。救いの場所、優しい時間の中で、ぼくはペースを取り戻す。そうしてやっと家路に着くことができる。毎日がこんなことの繰り返しであるような気がしてくる。