シュンの日記なページ

当別町スウェーデンヒルズ移住者 ブックレビュー 悪性リンパ腫闘病中 当別オジサンバンドOJB&DUOユニットRIOのVocal&Guitarist ツアーコンダクター 写真 スキー 山 田舎暮らし 薪ストーブ

金だけじゃ仕事はやってられない

 吉野仁氏の文章は上手いなあ。それも難しいところにピンポイントで降りてゆく、言葉の明快さ、例えのわかりやすさ。難しいことを話そうとしているのだけれど、なんとなく理解できた気持ちにはなれます。さてその辺をきっかけに自分も考えてみると……。

 書評家も作家も、確かに職業として存在する限り、経済の原理の中に組み入れられてあるわけだけど、そもそも小説という大いなる無駄に対して、明確な志向性を持って入り込んでその野望、というか少なからず強い意志は、そこら凡百の輩には備わっていない能力だと思う。そういう方向性というのは、決して経済の論理を向いていないわけではないんだが、生活のために必ずしも必要とならない文芸を、むしろ必要とされる何かに変えようという作業なのではないだろうか。

 仕事は金のためにやるのだけれど、本当に仕事がただ金のためだけにあるのであれば、ぼくの場合はきっとすぐに息切れしちゃうだろう。

 仕事に価値付けをするということは、自分が仕事を上手く進めるためにはとても重要な作業である。自分の仕事を価値付けるための初期設定作業のひとつとして、今、自分でなくてはできないものを、まずは仕事の中に作り出そうとする。まだ未開拓の場所に新しいものを組み入れてゆくということへの、クリエイティブな目標、達成したときに感じられる満足感のようなものだ。外界に及ぼす質量の多寡ではなく(無論多いに越したことはないのだが)、むしろ働き甲斐というところに着地してくれれば有難い。常にこれは、部下たちに強く話していることでもある。

 文芸活動にしたって、その点に関しては同じことであるばかりか、むしろ社会的影響度は開放度が高いだけに、よりわかりやすい部分であると思う。

 好きじゃなくては人は努力できない。報いられなければ、頑張れない。報酬は、決して金だけではないということである。

 賞や年間順位という名の名誉だって必要だ。だが、その賞や年間順位に関しては、そもそも狙うための方法論というものがあって、純粋創作以外のそうした出版界の裏側で跳梁する何者かがいるのだよ、と誰かがいう。それは間違っていて、そこまで割り切れる動きにはなっていないのだよ、と誰かが言う。

 でも例えば年間順位で取り沙汰される『このミス』を例に挙げると、あれは個人のアンケート回答を集計した結果が後でわかるというだけのシステムだし、個人の回答にはいろいろな価値観が混じり合う。例えば、知人の作家が書いたものだから選ぶということもあるかもしれない。あるいは、ベストセラーになるものは予め刎ねてしまい、自分なりに評価した無名に近い作品だけを世に知ってもらおうという狙いもあるだろう。ジャンルの隘路に入ってしまい、それ以外はあまり読まなかった人だっているだろうし、ベストセラー作品を選ばないのはおかしい考える人だっているだろう。ともかく『このミス』はそんなアンケートを集計するだけのものだ。

 『このミス』の順位というのは、ある特別な切り口の集計から生まれたものだということを理解して読めば、それほど大きな意味ももともと見出しにくいはずなのだ。

 なぜか出版社は「このミス何位」という帯をつけたがる。その帯の意味なんてその程度のものでしかないのだ、とわかっている人には帯の価値はないだろう。しかし、このミス順位を妄信して本を買い漁る購買層だって確かに沢山いるのだろう。出版社は敢えてそうした購買層に向けて売り出しをかけるわけだし、購買層は確かにそこに押し寄せる。

 書店員も千差万別だろう、確信犯もいるだろうし、売れさえすれば何も考えない、という人だっているだろう。何かに順位付けして、判断の苦手な購買層を引き寄せるという商売の方法は、何も出版だけに限った現象ではないだろう。

 よく吟味すれば、自分の読みたい本を選んでゆくことは可能だ。メディアからそうした情報を性格に引き寄せるコツのようなものだ。

 『このミス』だって、やり方によっては利用できる。ちなみにぼくの場合は、特定の評者が薦めている本をチェックする。その年の全体傾向をチェックし、アンケート回答者の傾向をチェックする。集計の全体像をチェックする。それから15位あたりを軸に集まっている作品に注意をする。けっこう、自分の好きな作品はこのあたりの順位に集まっていたりするからだ。

 どんな情報だって、それを得るためには日ごろの準備や努力が必要なのである。そうした努力をしない人は『このミス』を妄信する以外にないのだ。それはそれで何の判断根拠も他にないのであれば、構わないではないか。 

 ただそういう判断根拠のない購買層を狙って仕事をしようとするのか? それとも努力して読みたい本を狙ってくる少数派だがコアな人たちを狙って仕事をするのか、というところは業界人のモラルにお任せするしかない。

 ある編集者が、「海外ミステリーを心底好きでなければ、毎月毎月、膨大なゲラをチェックするなんてしんどい仕事は出来ない」というようなことをもらしていました。吉野仁「孤低の呟き」より)


 今、ミステリー界では、まず本が売れない、活字離れの進行による市場の縮小、といった大課題が先に立ってしまっていて、作家や書評家がまず食ってゆくための利益を生むはずの出版というシステムそのものが痩せ細っている事情というのがあるのかもしれない。だが、そうした経済事情に迎合せず、入り込まず、本来の人々のニーズに直列に向き合った形での純粋芸術を、だからこそひたすら読みたい。大いなる無駄をこそ愛したい。無駄だからこそ夢中になりたい。そうした本好きが渇望する市場ニーズは一般に普及拡大する可能性も秘めているわけだから、本当のところは馬鹿にできないものなのではないだろうか。

 小説がそうして価値付けられる文化をこそ、今後出版界に関わる人たちには、是非とも目指して頂きたい。そしてわれわれ読者がしっかりと、本に対する評価を露わにしてゆくことも、やっぱり大切なことなのだろうと、ぼくは思う。