シュンの日記なページ

当別町スウェーデンヒルズ移住者 ブックレビュー 悪性リンパ腫闘病中 当別オジサンバンドOJB&DUOユニットRIOのVocal&Guitarist ツアーコンダクター 写真 スキー 山 田舎暮らし 薪ストーブ

音楽の記憶

 今日は音楽演奏の話。

 10代の頃はフォークソング・ブームだった。いろいろなメンバーでバンドを組み、演奏した。独りで楽しむのはもっぱら吉田拓郎。みんなでハモりを楽しむのは赤い鳥、五つの赤い風船、ガロだった。ともかく、ぼくはそういう世代だ。少し下の後輩がかぐや姫で、もっと若い後輩がアリスを演奏していた。それらの音楽には、もう尾いて行けなかった。

 一方でロックへの強烈な憧れがあった。ウッドストックに刺激を受けた。グランドファンク・レイルロード、マウンテン、ジェスロ・タルジョニー・ウィンター等々、ニューロックが身の回りに入ってきたのは中学三年の頃。後に高校生になって、英国ロックが隆盛を極める。レッド・ツエッペリンやディープ・パープルを知らないものはなかったし、プログレピンク・フロイド、エマーソン・レイク・&パーマーなどは地上波テレビでライブが放映されるほどだった。もちろん当時は、衛星放送なんてなかったけれども。ユーライア・ヒープ、イエス、フォーカスなんていうのにも夢中になった。

 ぼくはアコスティック・ギターしか持っていなかったから、エレキサウンドのバンドはとてもできない。まわりには、ドラマーもキーボードもいなかった。だからアメリカのフォークロックの流れに乗った。ウェストコーストである。

 クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングを演奏した。彼らのコピー・バンドも組んだりした。彼らは二人になったりソロになったりするので、どんな形でも曲をコピーして楽しむ事ができた。ぼくはどんどんニール・ヤングに取り憑かれていった。ハーモニカを買い込み、ギターの打楽器的奏法とピッキングを練習しまくった。

 そんな頃、音を第三者的に聴いて修正を加えるには、ラジカセを利用するしかなかった。独りでハモの練習をするためにラジカセとオーディオを組み合わせて多重録音に挑んだりした。もちろん音質はバランスも悪く目茶目茶だった。

 大学時代は、ギター狂に囲まれて暮らした。自然とニール・ヤング・マニアが周りに集まった。いろいろな人間とギター、バンジョー、フラットマンドリンフィドルといった弦楽器の音を混ぜ合わせ、酒を飲んでは、ハモって遊んだ。そして時々素人ライブに出た。

 オリジナル曲も作ったりした。それらは今最低の音質で、ぼくの古いTDKのカセットテープに収録されている。一緒に何度かライブをやった仲間で鈴木一記という、高校時代からの同級生がいる。彼は二十歳で死んだが、天才的に歌が上手かった。いい曲を沢山残した。一部は死後プロ歌手に歌われ、たった一枚残した自主制作アルバムは、インディーズの流れに乗ったらしい。

 最近、ネットを通じて、その夭折した友人の音が欲しいという要望を、若いファンの方から頂いている。彼は、鈴木一記の家族を訪ね歩いて、ついに最近その実弟に会うというところまで漕ぎつけ、何と、CDを作成する許可を頂いてきたという。その熱意に打たれた。

 その方には、一記とやったライブ音源をとにかく送ることになっている。使えるようなら、CDに収録したいという。十代最後の頃の、古い、ゆがんだ音を、どうにかまともな音に再現して、ぼくはその人に協力しようと思っている。

 何よりも一記という友人のために。彼が残した歌のために。

 ぼくはぼくで、そうした動きとは別個に、当時の自分のオリジナル曲を再現しようかと、最近考えている。当時の音源を、素人仕事でリミックスできるかもしれない。そんな時間はなかなかないのだが、どうにかやりくりしようと思う。

 今も二十歳のままぼくの中で生きている鈴木一記に今さら刺激されているらしいのだ。