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ノワール論

 吉野仁孤低の呟きが、完全なる佳境に入っている。ネットでなければ書けなかったかもしれないタブーに触れてゆくことで、もともと彼の中にあった「暗黒小説」の定義が明らかになってゆく。

 評論家を標榜して生きることへの潔さが、何よりも感じられて、何よりもここ数日の吉野仁には信頼感がある。

 昨日の日記でスペンサーへの言及が少し変だということをぼくは書いた。スペンサーをこきおろしたのは吉野仁ではなく当時のハードボイルド読みの連中である、というような、話の持って行き方に評論家的な一流の技巧を感じたからそうしたのである。

 しかし、今日の日記に、ある覚悟を見て取ると、なんだかスペンサーのことなんて、どうでも良いことのように思えてきてしまう。

 とりわけ『ポップ1280』の出版のいきさつに関しては、ハヤカワ書房のあるお偉方の先見の明のなさによるノワールの否定、またその時代のノワールへの無理解ということが、版元変更、扶桑社のトンプスン路線大成功という結果に結びついた皮肉、と読者にとっては初めて耳にする業界裏側世界の真実であったりして、とにかく興味深いものなのである。

 さらにタブーは深奥へとまさぐられようとしているみたいである。ここのところこのブログからは、本当に目が離せない。

 ちなみに自分にとってノワールとは何だろうか? フィルム・ノワールの観点で言えば、ギャングもの、イコール、ノワールなのだろうが、真性の意味で言えば、ノワールのぼくの核はエルロイ。ギャングであればいいのではなく、ある負への衝動を抱え込んだ人間の破滅との格闘こそが、ぼくの本当の意味でのノワールである。

 犯罪に駆られるどうにもならない弱さに軸を置いたクライムは、ある意味でノワールに近いと言える。

 疑心と欲望と闘争心が生んだ修羅の世界と、結末へ導く皮肉な運命を描けば、これもノワール的傾向が強いと言える。

 何よりも内的衝動が外的偶然によって増幅され狂気の側にぐらりと傾いてゆく破滅の姿はノワールである。

 デカダンスと負への志向、その核にある壊れ尽くしたかつて夢と、懐かしき人への失われた愛という感情、それらを背景に浮き立ってゆく現在の孤独。感情さえ排さねばならないほどのゆきづまった状況が呼び起こす愚かな選択。そんなものをひっくるめて、ぼくはノワールと呼ぶ。

 だから、実のところノワールになり得る作品って、あまり多くは存在しないのである。大半はクライムノベルというあたりにとどまっているわけで、それはそれで一向に構わない。

 そんな観点から、吉野仁というノワール論を日本に確立したのは自分だと標榜しているかに見える吉野仁日記の次なる展開は、とにかく楽しみで、まさに興味が尽きないところなのである。