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『優しい時間』最終回

 何かを作っているとそれに夢中になって、嫌なことや淋しいことを忘れられる。
 作中の可憐なヒロイン・長沢まさみが言うセリフである。確かにこのドラマではいろいろな人がいろいろなものを作っている。父は美味いコーヒーを淹れることに集中し、客たちはコーヒーミルで豆を挽いて、コーヒーを作るという共同作業をしている。息子は陶器を作り、恋人はペンダントを作っている。
 こんなにも何かを作ることのできる環境というのは、ある意味羨ましい。世間の多くの人は、作ることではない何か他のもので生計を稼ぎ、何か他のものでストレスを紛らわせているような気がする。そもそも第一次産業は「作る」産業であり、人間の仕事はこのことからスタートした。人間が本来のものに帰ろうとすれば、作ることは、とても自然で、なおかつ人間の本能が求める方向にある作業なんだと思う。だからこそ「作る人」が多く出てくるこの物語は素敵だし、羨ましい。作者・倉本聰が、シナリオや劇団を「作る」人だからこそナチュラルに出てくる発想なのだろう。
 でも現実の多くの人は抽象的には何かを作ることはできても、このドラマほどいろいろなものを具体的に作り上げることに熱中してはいないに違いない。
 それからもう一つ。
 若い恋人たちは互いのことを見つめているが、熟成した恋人たちは同じものを同じように見て、同じように感じる、という寺尾聡・大竹しのぶの会話がある。これも、本来そうであるべきなのだろうが、実際には、熟成した男女は、実は違うものをずっと見てゆき、違うものをずっと感じてゆきながら、それでも生活をともにしているのではないか、とぼくは感じてしまう。だから、同じものを見て同じように感じるという、ドラマの男女のセリフがやはりこれまた限りなく羨ましい。
 羨ましいことだらけだからこそ、ドラマに惹かれる、ということも、もしかしたら多分にあるのかもしれないけれど。