シュンの日記なページ

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超世代的価値

 ただ単純に眠いんじゃなかろうか。昼まで眠ってしまった。昨日、かかりつけのドクターと話していて、明るくなっても寝ていられるなら、まだ若いんだろうな、と言われてしまったけれども、布団を頭まで被って眠ると、ずっと眠れるみたいだ。
 起きても相変わらずすっきりせず、窓の外の雪景色の上空に拡がる無限の青空と、どうもマッチしない気分だ。
 ちなみに朝から(昼からだけど)、コタさんのPな日記で批判されてしまっている自分を発見。うーん、ジャンルが嫌いなんだけれどな、ぼくは。SFとか、ファンタジーとかいった、ジャンルに親近感を持てないのと同様に、新本格っていうものにも親しみを持つことができない。ほとんど読んでいないのでそれ以上の説明ができない部分、我ながら相当に無責任だとは思うのだが、今回ぼくが批判されたのはたぶん、ぼくが用いた「お子ちゃま」という言葉が何故か持っている鋭い攻撃性についてだろう。攻撃をすれば必ずリアクションがある。リアクションを避けたければ、最初からおとなしくしていればいいのに、思えば全然そこが治らないでいる48年間の人生であった。
 いずれにせよ、本を読むにあたってミステリで言う「謎とき」のことなんて、自分にはどうでもいい。そういう意味では自分はミステリの読者ではないのかもしれない。謎とき以上に、そこにプラスされる要素が、どういう内実を秘めているものなのかどうか、っていうところに作品の価値は集約される。その部分が、自分の物差しに合わない、ある世代以下限定のものであったりすれば(例えばTVゲーム、アニメ、コミケ、魔法などなど)、それだけで子供じみたものとぼくは感じる。「子供」「お子ちゃま」という単語を乱発することにより、こちらから世代を切り捨てたように感じるのだろう。異世代からの批判を食らってしまうのだろう。かくいうぼくも、ことネットにおいては、異世代批判を惜しみなくやってきたことで、多くの先輩を失った口だから、それはわかる。批判は、敢えて受け止めよう。
 最初の話に戻るけれども、ぼくは一般庶民の誰もが、若書きと感じない文章、しっかりした素材と思うものを書いて欲しいだけなんだ。現状の若者カルチャーの一部のみを、安易に切り取って大騒ぎする作品ほど臭い物はない、と思ってしまうのだ。流行り廃りに関係なく、時代を飛び越えても、なお読める文化、っていうことにこだわりたい。それこそがぼくの価値観であり、そうでない一年物の賞味期限、わが国限定、というような、今ここで読む他に価値のない生もの、というところに使うべき時間は、個人的にはあまり持ち合わせていない。そういうものであっても敢えて受け入れることができるのは、自分の同世代のものくらいしか、ぼくの場合あり得ないのだ。「お子ちゃま」という表現で片付けたくもなる、異世代文化に、それこそが違和感を感じる由縁。だからそういう世代、時代や国を飛び越えて、なおかつきちんと読める本、そうした作品だけを選別し、評価して行きたいわけである。
 『このミス』がそうした、超世代的価値を評価できるだけの冊子になっているとは、今はとても思えない。ぼくの言いたかったことは、そういうことだ。
 あらっ、ふと気づけば、日記だと言うのに少しむきになってしまった。
 なんという「お子ちゃま」ライクであろうか。