シュンの日記なページ

当別町スウェーデンヒルズ移住者 ブックレビュー 悪性リンパ腫闘病中 当別オジサンバンドOJB&DUOユニットRIOのVocal&Guitarist ツアーコンダクター 写真 スキー 山 田舎暮らし 薪ストーブ

活弁師・麻生八咫

 びっくりした。NHKの『課外授業』で臨時先生をやっていた。もう五十歳になると言う。風格、である。活弁という仕事。今や日本では第一人者であると言う。素晴らしい。
 実はこの人、ぼくの獨協大学時代の文芸部の先輩なのである。この人の提案で当時の文芸部の創作集のタイトルは『八咫烏』だった。ぼくは表紙のデザインを担当したことがあるし、今書いている小説の原形ともなるべき100枚ほどの創作を掲載したこともある。十九歳の頃のことだ。
 文芸部の部室の扉を開けると、いきなり着物を着て女装した方と、上半身裸で雄叫びを挙げる麻生さんの姿があったのをいまだに覚えている。「すいません、文芸部に入りたいんですけれど」その途端に麻生さんは椅子に片足を乗せ、上腕に力こぶを作ると「パワー!」と実にいい顔といい声とでぼくを歓迎してくださったのだった。麻生さんは当時劇団パワーという集団を起こしたばかりで女装した人はその芝居のための扮装をしている桜井藤野というこれまた文芸部の部員であった。思えば、それだけでも素晴らしい文芸部だった。
 麻生さんの劇団はフリージャズ研究会とともに学食前で凄まじいパフォーマンスをやっていたものだ。ペンキをぶちまけて、和装で踊る姿は、当時寺山修司に通じるような原色の美学と混沌とを抱えてとにかく観客だけは呼び込んでいた。
 唐十郎の芝居をオリジナルにアレンジして見た芝居そのものも相当の迫力だった。何しろ彼らのトレーニングはぼくがもう一つ入っていた山岳会のものよりも激しかったと思う。ぼくはさらにスイングアウトのサークルにも入っていた。結局その後山に集中することになったのだが、それでも麻生さんたちのパワーは凄まじかったし、ぼくの文芸同人誌と劇団パゥアーのチケットとは学食前で机を並べて売り出していたものだ。思い切り70年代をやっていたものである。
 その麻生さんが早や五十歳かあ。風貌はさすがだった。活弁もきかせて戴いた。札幌に来ることがあるのなら是非拝聴させていただきたいな。芝居から活弁へ。いまだにやっているんだ。夢を見ることとそれをある種実現させてゆくこととの間には相当な距離があるはず。その距離を詰め切った人特有のいい表情を湛えて、28年ぶりの麻生さんの顔がブラウン管の中にあったのだ。