読みやすい文章、読みにくい文章
読みやすい文体というのはいいのだけれど、何故か悪文のほうが印象に残る小説が多い。読みやすい文章は引っかからずに読めてしまうだけに、最後までさらさらっとしていてその分、ぼくの体内を通過しやすい。逆に読みにくい悪文と格闘するとそれを克服したときの歓びが大きいような気がするのは、登山のルートの難易度と似たものがある。
というわけで『ハルビン・カフェ』も『インヴィジブル・モンスターズ』も読みにくさは相当のものだったのに、読後にずしりと残る達成感がある。長さとか厚さとは別個の、ページが進まない感覚。これで内容がつまらなかったら達成感もなにもないのだけれど、ストーリーが錯綜している面白さ、表現されていることの密度のようなものも、読みにくさに繋がっている場合、やはりその本の小説世界の印象はやたらに濃いものになるわけである。高村薫などもその代表みたいな作家だと思う。
日本小説は読みやすい短文章を国語の授業で奨励してきたわけだけれども、ある意味そのルールから敢えて離れるということだって相当に必要なことなんじゃないかと、ぼくは最近思うようになってきている。