シュンの日記なページ

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面白い話題、つまらない話題

 こういう日記を書いていても人のコラムを読んでいても、つくづく思うことだが、世の中には面白い話題とつまらない話題と二通りしかない、ということ。あるコラムのページを毎日何となく開いてみるけれども読む気になる話題がないというのがある。何がいけないのかと言って使用者限定みたいな話題が非常に多くついて行けないことがほとんどなのだ。限られた多種の話題が一日に何個も発信されるのだが、そのどれに対してもなかなか興味がわかない。しかしそれは話題のせいばかりではなく、普遍化という作業が足りないからではないかと、ぼくは思う。例え限定された話題であれ、一般の誰が読んでも、ある程度の興味を惹きつけ、誰の問題にも帰納させてしまうという意味での普遍化。
 いい例では、ある面白いと日頃思っているためにチェックしているページがある。そこではたいていの話題が、実は専門的な事柄を扱っているのにも関わらず、読んでいて面白かったりする。要するに話題は限定されているのに、使用者は限定されていないというありかたなのである。つまり普遍化がよくなされているのだ。文章を練りあげるどこかの工程で。
 つまらないコラムのぺージでは、より多くの読者を期待していろいろな話題をばら撒いてみるのだけれど、その意図が営業的で見え見えであり、逆に自分という地点へのこだわりがなさ過ぎて、ただの井戸端会議のようになってしまっている。こういうのは、ぼくには相当につまらない。
 こういう日記風コラム、あるいはコラム風日記を書いていて、考えることは実は、上記のようなこと。石狩の図書館から借りた本のリストだとか、最近入手した絶版本リストだとかは、おそらくは非常につまらないものだよなあとつくづく思う。自分が手に入れたり読んだりした本が一冊もそのリストになければ話にもならない。本を読まない人であれば、よけいにつまらないだろうし、内容にすら興味が届かないことだろうと思う。
 なので、本来はできるだけ普遍化しなくてはいけない、という気持ちは実のところあるのだが、レッズ話題などになると、正直言ってそういう意識はころりと抜け落ちてしまうのである。これぞ限定された話題を限定された読者向けに書いているとしか言いようがなくなる。確信犯。サッカーを嫌いな人には読むべきなにものもないのだろうなあ。
 人間の見聞するものなんてしょせん人間のリーチの範囲内のことなのだから、題材を広げたってたいしたことはできないだろう。どこかで開きなおって自分の好きなことに関して徹底して深めてゆくしかあるまい。それをどうやって普遍的な話に広げてみせるかという方法にこだわってみることのほうが、きっとコラムの価値を作り出すための、いや、書き手その人が興味を持ってもらうための最も強烈なポイントであるのかもしれない。
 こだわりというのは、大抵の場合、何らかの具体的なかたちを取ってゆかねば誰にも気づかれることがないだろう。だからこそこだわりの果実として人は何らかの表現をして実らせ、味見していただきたがる。その表現の方法の一つがこうした日記=コラムであるのだとでも考えない限り、こうした日々の記録も意味をなさなくなるような気がする。