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オハイオへの電話

 今日、市営斎場の予約がようやく取れたので、母の葬儀の日程がようやく決定し、各方面へ連絡をする。
 母のちょっと年下の妹である叔母が一人、米兵と結婚しそのままオハイオに住みついているので、電話をかける。うちはIP電話と携帯しかないので、国際電話はすぐにはかけることができないみたいだ。とりあえず携帯電話で、国際電話の登録手続きを踏んだ。オペレーターとの簡単なやり取りだけでそれは済んだ。5分後にはアメリカに電話をかけることができる。便利な時代だ。
 最初にアメリカ人の叔父が電話口に出た。たどたどしい英語だ、とすぐに叔母の関係だと類推され、叔母に電話を代わった。
 叔父には横田基地在住時代には散々お世話になった。庭でのステーキとバーボン、基地祭でバドを飲みながらダコタの中を見せてもらったこと、ビーコンが点る夜の滑走路を車で走り回ったこと、子供たちの野球のナイトゲームを見ながらホットドッグを食べたこと、クリスマスにターキーの塊を食べながら英会話の練習をしたこと、等々。
 叔母が言う。
 あなたのお母さんには、日本で会ったときに、詩をもらったのよ。それを額に入れて飾ってある。私をこんな風に思ってくれていたんだって、その詩を通してわかったのよ。だから壁に飾ったその詩を眺めない日はないのよ。その詩を見て姉のことを毎日のように思い出している。この間親戚から、ホームに入っていると聴いて、電話しなきゃ、って、ついさっきも考えていたところなのよ。なのに……、間に合わなかったね。
 叔母の声は母とそっくりだった。ウィリアム・ホールデンビビアン・リーダニー・ケイとググレン・ミラー・オーケストラが大好きだった当時にしてはハイカラだった母は、あまり喋り合う機会の持てなかったこのアメリカの叔母ともしかしたら一番、話が合ったのではないかとぼくは思う。顔も声も性格も姉妹たちのなかでは最も似ていた二人であるようにぼくは思う。
 この叔母のもとに若かりしぼくは、入りびたる。アメリカ人の家族が楽しかったし、アメリカ文化のなかで生きる叔母の勇気に敬服していたこともあったろう。ときにはぼくは、ぼくの家族の問題を話したものだった。他の誰にも言えない両親の離婚に至る詳細、弟の死、母の発病、その他ぼくが抱え込んでいた様々な災厄を。
 この叔母には、確かに頼っていた、ぼくは。彼女が一家揃ってアメリカに帰ってしまうのが実は相当に辛かった。
 数年後、日本にきたときに、ぼくは家族を紹介した。もちろんその当時はとても幼かった我が子も。
 この叔母と話すのは、それ以来だ。叔母に母が渡した詩のことなんてぼくは全然知らなかった。 最後に叔父のメール・アドレスを教えてもらった。メールを書くつもりだ。
 母が死んで以来、今日初めて涙が出た。詩の話をされたときには、ぼくのほうは声がつまってしまった。悲しみを心底共有できる人の存在を感じ取ることができたせいかな、って思ったが、実はそうではないのだろう。ぼくは、そのとき身内のいない異国で生きる叔母の真の悲しみを感じ、その叔母の孤独のために涙したのだった。