シュンの日記なページ

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本読み

 上司は昨年末の忘年会で「みんな本を読まねえだろう」という前置きで、本を読む人が少ないことを嘆いていていた。
 それから数ヶ月経ったある日、社内で「何時に寝るか?」という話がなにげなく盛り上がる。9時に寝る人もいれば、11時に酔っぱらって寝る人もいる。だが酔っぱらってから本を読んで2時まで起きている人は、たまたまぼくだけのようであった。上司は「漫画か!」と吐き捨てるように言った。先入観という、プリミティブな傲慢であるよな。
 もちろん、ぼくは何を言っているのかと怒ってみせる。漫画に対して失礼な物言いであること、プラス、おれは本を読まない人間と見下されていたかという異様に蒼ざめる思い。確かに読書は大江健三郎が言うように『個人的な体験』であるが、読書を本当に突き詰めずに本を読むか? と軽く聞くことを文化の尺度のように扱う人の鈍感さ。これがたまらなく嫌なのであった。
 ちなみにこの上司をぼくは疎ましくは思っていない。むしろ平均的な定年間近の上位役職の言葉であるような気がする。ぼくが感じるのは、職場というある意味公共であり集合体の場所で、本という、極めて個人的な心の居場所の物語が同じ地平で俎上に載せられたときの、全き違和感である。なおかつ、上下関係の存在するそういった場所で半ば暴力的に計測数値として語られてしまう読書である。これが映画であれ、他の様々な趣味であれ同じだろうな。ある意味、相手を批判できるという立場にまで踏み込んで趣味の領域に話題を持ってゆくにはそれ相応の覚悟が必要なのではないか、という気がしてしまうのである。
 ちなみに今日、息子と漢字の問題出しっこをしていたら、妻が、役にも立たない漢字を知っていたってしょうがない、という発言。ぼくはそこで激怒してしまったのである。まず一つには、漢字を覚えるにはそれ相応の努力があり、時間を費やしたという事実。もう一つは、役に立つか立たないかの次元でものを言われてしまったこと。さらに言えばそれを小学5年生の息子の前で平気でいうこと。それらに対し、きっと妻も激怒されるとまでは思わなかったのだろう。ぼくは小説が好きで、言葉が好きで、日本語が好きだし、ある意味数少ない得意分野でもあったのだ、自分を否定され面白くない部分もあるけれど、それ以上に、多くの否定文への反逆精神があるのだ。
 先般の上司の読書への見解といい、妻の暴力的な批判といい、物言わず読むだけの行為というのはいかにも受動的であり、個人的であり、沈黙的であり、なおかつ身に覚えのない批判まで受けやすい。
 結婚したての頃、本と結婚すればよかったのにと言われたことがある。そのくらい確かに本は好きである。しかも本は一人でないと読めない。会話も不要だ。そういう贅沢な時間を費やす行為ではある。それだけに反対者や批判者も多い。ましてやその本が、娯楽を求めてひたすら犯罪方面を主題にしたもの一辺倒であれば、確かに不利極まりない。
 そうしたすべての障壁に怯まずに読む。これがクライム、ノワール読者の、反社会的であろうと何だろうと、宿命であり、闘いの素因なのである、と思うのだ。くそっ!