シュンの日記なページ

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連続発言の是非について

 お隣のフォーラムFSUIRIの掲示板「ミステリーミーハーの部屋」で、部屋番なのか、普通のアクティブの方なのかちょっと存じあげないのだが、風さんというハンドルの方がとにかく一人で精力的に発言を連発していた。ある日、だだだだだだだと同じ掲示板に10個くらい、彼が発言を連発した。傍で見てても乗っているなあ、という感じだった。それが後日、全部発言者自身により自己削除された。風さんは説明する。自分ばかりいっぱい掲示板に書き込んでしまい、皆様の発言意欲を削ぐようなことをして申し訳ないというような内容だった。すると、その発言に対し二週間に一度しか巡回しないという「通りすがり」というお気楽なハンドルの方が、反論で答えたので事はややこしくなる。今さら削除されたって書き込む気になんかなれない、というようなつれない返事を、「通りすがり」さんは「書き込む気になれない」のに「書き込んだ」わけだ。今度は、ふたたび風さんが連続発言を反省して、今後気をつけますと謝罪するのだった。
 このツリーの構図っていったい何だろうと、ぼくは思ってしまった。ぼくだってたまには、フォーラム活性化を狙ったり、自分自身話しかけたいことがあって発言スレッドを連続的に立てることがある。しかし、だからと言って自分の発言にレスがついてツリーが伸びることは、メンバー同士の話題としてよほどの共通項でもない限りあり得ないのが今のフォーラムの現状だ。悪質メールの話やサムターン侵入の話であれば今どき旬な共通話題としてすぐにレスがつくけれど、古い作品の感想を書いても絶版で誰にも手に入らない本だったり、新しすぎる本の感想を書いてもまだ誰も読んでいなかったり、共通意識を持つというのもこれでなかなか大変なものなのだ。
 昔は確かに書き込む人の数も多かったけれど、その頃はニフティのフォーラムしかなかったではないか。今は無料ホームページだって沢山持てるし、どこを見回しても掲示板だらけなのだ。より「通りすがり」というハンドルの方のようにお気楽に書くことのできる場所は、ニフティ以外の場所にも無尽蔵にある。だから、ニフティのFADVのような、言わばフォーラムとして長く細くやっているというだけの、かなり執念深い場所に書き込んでいる人たちというのは、みな一様に腐れ縁みたいなおつきあいを容認してくれている人たちである。面倒臭いことが嫌いなぼくは、自分の時間がないときには書き込みをしなかったりレスもつけない。その代わり、時間があるときにはできるだけ管理者としての責任を果たしたいと考えている。それも今のアクティブの方々だけではなく、もっと大きなROM人口を念頭に置いているので、自然、情報価値の高いものを優先的に扱いたいと思っている。きちんとしたブックレビューにきちんとした書誌データを整えてゆきたいし、できるだけ共有できる情報をと念頭に置く。
 発言数について言えば、ぼくは当然他の人よりもずっと多くなる。そんな場所に、二週間に一度だけやってくる「通りすがり」の人が、ああ書きにくいなと感じたとしても、ぼくがその人に謝罪する必要なんて果たしてあるだろうか? ましてや自分が発言しすぎたことを謝罪する必要が。風さんの場合も決してゴミ発言をばらまいたわけではなく、話題の提供と言ってよかった。ただし悲劇だったのは誰もこれに乗って来なかったことだ。ぼくの場合は、それを当然のことのように受け止めてじっと耐えるのだけれど、風さんはそれらの提案をごっそり削除して、反省までしてしまった。
 このケースがぼくであれば、反省なんて絶対にしないだろうと思う。何よりも「通りすがり」の人よりも、ずっとずっと愛情と熱意を持ってフォーラムに向かっている自負と誇りがあるからだ。FADVがクソみたいなものとは、ぼくは考えていないし、発言者は少ないかもしれないけれども、それでもありったけの同志の方々によって作品感想が次々とアップされてゆくのを見ていると、なけなしのパワーだって侮れないぜという歓びを確実に感じてしまう。
 もちろん発言なんてしなくてもかまわない。読むだけの方がずっとお気楽で楽しいし、第一、無駄に疲れずに済む。ぼくも他のフォーラムや掲示板ではそうしてただただ情報をいただいて利用だけしているので偉そうなことは言えないのだ。
 でもしかしだ、せっかく熱意で書いてきた風さんがたかが通りすがりの人に謝罪し、自分の発言を減らしてしまうということはどうだろうか。その選択肢の先にはフォーラムの衰退と袋小路しか見えないような気がする。
 確かにFADVでも感想をアップしてくれる人はきわめて少なく、小数の限られた人のものしか現状では読むことができなくなっている。昔の時代の感想を読むと、もっと多くの人数が参加していたことは明らかだ。かと言って発言している人が間違った行動を選択しているとはぼくは思わない。発言している人だけでも胸を張って櫓を漕いでゆけば船は進む。たまには気が向いたときに一度だけ自分も船を前に押し出そうという人もいて、そういうひと漕ぎにぼくはいつも勇気づけられ力を与えられる。みんなの総力でわずかずつでも確かに船は前に進み続ける。
 ぼく自身こうしてフォーラムとは別に自分のサイトを持って密かにやっているけれど、ぼくのサイトからFADVへと辿り着く人がいてもいいと思うから公私の活動をそれぞれにやっているわけだ。ぼくにはFADV以外にもいろいろな側面があるので仕方がないことだ。たとえば、浦和レッズサポーターがぼくに感化されエド・マクベインを読んでくれるようになるならこんな嬉しいことはないわけだ。ぼくは山岳部の後輩や仕事の仲間に随分とハードボイルドファンを増やしてきた。ネットでだって当然同じことをするのだ。
 サッカーではボールのないところでの動き、いわゆるフリー・ランニングというやつが重要な要素となる。無駄に終わり、報われないことも多いフリー・ランニングは、途方もなく疲れる作業でもあるのだが、フリー・ランニングをやる選手が全然いないチームというのはサッカーの試合の場合、たいてい負けてしまう。つまりネットだって同じ。ボールが来なくても全力で走る人がいなければ、フォーラムは衰退してしまうと思う。でもあるとき必ず誰かからのパスはやってくる。無駄走りを惜しみなく繰り返すことでいつかゴールを決めるチャンスが必ずやってくるのだ。そうして信じ、走り続けることの重要さは、サッカーでもネットでもそれは同じだとぼくは思っている。