シュンの日記なページ

当別町スウェーデンヒルズ移住者 ブックレビュー 悪性リンパ腫闘病中 当別オジサンバンドOJB&DUOユニットRIOのVocal&Guitarist ツアーコンダクター 写真 スキー 山 田舎暮らし 薪ストーブ

ハムスターが死んだ

 うちのハムスターのクン太くんはいつも小屋の中に閉じこもっていて夜中にならないとあまり顔を出さないし、たまに姿を見せたとしてもワッカの中をぐるぐる回って、籠の天井にぶらさがってはがりがりと齧ったと思うと、さっと小屋にまた閉じこもってしまう。今日、テレビで『ダッシュ村』を見ていたら山羊が死んでしまう悲しいシーンがあったので、こんなことがうちのクン太君にもあるのだろうなあ、と心配になり、小屋に呼びかけたのだが返事がない。まあ返事はいつもないのだけれど、新聞紙を噛み千切って防寒の備えをした小屋の巣の中からいつも名前を呼べばごそごそと出てくるのだが、今日は動きがない。そういうときは、と人差し指を巣の中に突っ込んで掻き回すと、たいていは諦めてごそごそと出てくるのだが、今日は反応すらない。柔らかい毛並みが感じられるが、ぬくもりが消えていて、はっとする。巣にしている紙屑を取り出すと、クン太くんの冷たくなった体が丸まって、目を閉じて出てきたのだった。
 夕方に息子が遊んでいるのを見たというし、確かに昨夜も日々の日課として風呂上がりにクン太に話しかけ、彼がワッカをぐるぐる回すのを見てから、夜通しつけているストーブの前に籠を移し、水も新しいものに取り替えた。なのにいきなり死んでいるのだ。冬眠かと思ったが、心臓が動いていないのでそうではないとわかる。二年と四ヶ月。この種のハムスターは二年から三年の寿命というから、いつ死んでもおかしくはなく、お嫁さんを飼って子どもを作らせてあげようかと話していた矢先だった。いきなり死んでしまい、家族が大騒ぎで代わりばんこにその亡骸を愛撫する。毛並みに衰えはなく、息をしていなくても愛らしいままに眼を閉じている。
 犬や猫の場合十年以上生きることも珍しくない。ハムスターは生きて三年。ペットとして生き物を飼うことは子どもなどに生死を体験させるという意味で有用だという話を耳に挟むけれども、ハムスターを連続して飼ったりする場合は、いくらなんでも死と喪失の体験が多すぎるような気がする。死についてはあまり多すぎるとそれが麻痺するのが怖い。
 今イラクで闘われている戦火の下で、市民たちが空爆をあまり恐れないのも、死と暴力があまりに頻繁で間近にありすぎるからではないのか。それが当たり前という環境下に生きているからではないのか。そういう意味では、もう少し寿命の長い生き物と長く家族ぐるみでつきあって、本当に十年に一度くらい喪失感や悲しみを味わった方が情操教育という意味ではいいのではないかと思う。あまりに頻繁に死んでゆく小さな生き物の場合、喪失感も悲しみもそう刺激的ではないように思える。
 息子が我が家で二匹目のハムスターの死にさほど悲しげな表情を浮かべなかったことでそんなことを考えたのだ。見えない場所で紙屑に埋もれて知らぬ間に死んでゆくハムスターと、苦しみ遠吠えながらぼくの眼を見つめつつ死んでゆく犬とでは確かにその死から受け取るメッセージも傷みも、感覚的にだいぶ違ったものなのだろうと思う。
 ペットといっても一様にべたに並べ、総括的に扱ってしまうわけにはゆかない。ハムスターはあまり人間と共存する雰囲気が元々ない。自分の本能に従ってただ日々を生きているように見える。なついてくるそぶりが多少あるのだが、情が通い合うというまでには至らない。同じ屋根の下にただ居食をともにしているというだけの、別の人生(ハム生?)がそれぞれにあるのだ。犬、猫のように人間になつき共存しお互いに愛情の素振りを見せ合うということもハムスターの場合にはまずほとんどない。
 死にもいろいろな距離感があって、わが息子の情操教育を本当に鍛えたいのならば、ハムスターではなく犬を飼うべきなのだろうと思う。しかし何かを愛玩するという行為は必ず喪失の悲しみを伴うものだ。これらのことは学校のウサギ小屋でも体験しているようだし、今後もっと辛い意味での喪失を否応なく体験させられることは約束されていることなのだ。喪失に伴う傷みをどう収拾してゆけるのか、そうした強さでデリカシーを包み込めるような人間に育ってくれれば有り難い気がする。