スカーペッタ 核心
このシリーズに4年ほどの不在期間を置いてしまった。そのおかげでシリーズというものが呼び起こすインタレスティングの多くを自ら損なわせてしまったように思う。シリーズの際立った特徴や、独特の、陰性の空気感などは忘れ難いものの、細かい心理描写に重きを置くこの小説シリーズのデリケートな側面については、過去の流れを取り戻すのに時間がかかった。ただでさえ手こずることの多い精緻な作品シリーズであるのに、自ら、検屍官ケイ・スカーペッタ宇宙への浸透の難しさを増やしてしまった。シリーズは5作ほどこの後に行列をなし、ぼくに読まれるのを待っているらしいので、本シリーズへの贖罪のようにしばらくはこの苦しい時間に耐えようかと思う。
さて、長いことこのシリーズの翻訳を務めていた相原真理子さんが降板、シリーズの翻訳は、前作『スカーペッタ』以降、ジェフリー・ディーヴァーのリンカーン・ライム・シリーズでお馴染みの池田真紀子さんにバトンタッチされている。残念ながら、本シリーズでとても馴染みのあった相原真理子さんは、2010年の1月、62歳という若さで死去されていた。遅きに失したが冥福を祈る。
しかし、おかげで池田真紀子さんには悪いが、やはり読みにくさを感じてしまう。おそらく相当の難物であろう本シリーズの翻訳を、さしもの池田真紀子さんと言えども、相原翻訳に慣れた身には何か違和感が感じられ、読みづらさというようなものを否定することはできなかった。固い文章でびっしり埋められたページの窮屈さは、もしかしたらコーンウェルの意図するところでの読者に対する挑戦的な壁となるのかもしれないが、相原さんの翻訳はもっとそれを砕いて聞かせてくれるマイルドなところが強く感じられたように思う。
個人的なことを少し。
富良野駅前はもうすっかり変わってしまったが、昔は、ドラマ『北の国から』そのままの田舎町の駅前の風情だった。ぼくは営業の拠点として、今はもうない昔風のホテルによく投宿していたので、駅前通りにある気の置けない酒場で独り飲んでいたのだが、馴染みの女性店員とよくコーンウェルの新刊の話で盛り上がった。お互いにこのケイ・スカーペッタ・シリーズを何年も読んでいるのだが、彼女はぼくのようにミステリ読みではなく、たまたま本シリーズを読み始めたらやめられなくなったという。昼間は農家でジャガイモ洗いの仕事をし、痛んだ腰を片手で叩きながら、夜には酒場の仕事を手伝いに来ている三十代の女性であったが、こういう人にもスカーペッタは読まれているのだ。
その後、その女性は札幌のデパートに職を見つけ、富良野盆地の住人から一気に大都会の生活者となっていったのだが、富良野に時々顔を見せては友達の子供たちにスキーを教えたりしたかと思うと、また仕事場に戻ってゆく、というようなこと繰り返していると、風の噂に聞いた。だから、ぼくはスカーペッタを読むたびに、その女性の、お世辞にも美人とは言えないカントリー・フェイスを思い出し苦笑いする。
個人的に過ぎたかもしれないが、要するにそれほど万人に愛顧されたシリーズであるということが言いたいのだ。書店をすら見つけるのが難しい、富良野という小さな街の片隅で見つけた愛読者は、まさに本シリーズのおそらく氷山の一角であり、その実、これらのスカーペッタ作品は世界中で人気を得、当たり前のように女性検屍官の活躍するシリーズとして読まれているという事実を。
さて、だからこそ、ではないが、それだけの人気に対して、この読みにくさは何なのだろう、とぼくは疑念を覚えている。本シリーズの欠点とも言えるのだが、パトリシア・コーンウェルという作家は、広げすぎた大風呂敷を畳み切れずに未解決のまま先延ばしにする。それも頻繁に。だから相当に昔の、何作も前の事件や出来事を引きずってゆき、それらのことをフラッシュバックしては回想し、会話に乗せ、過去の思い出で人と人とを対立させ、情念を衝突させ、現在の事件を放り出してまで、陰湿なホームドラマめいた複雑な時間を多く作り出す。ケイのヒステリックな怒りに多くのページを割いたりもする。
一人称の小説として始まりながら、『黒蠅』以来、改めて固定したかに思える三人称描写だからこそ、ケイのみならず、ルーシー、マリーノ、ベントンなどなど、それぞれの思いにまで描写のメスを入れることで、事件捜査そのもの以上に懐疑的で、距離感があり主要キャラたちの互いの信頼が薄いように感じられる。それぞれの人間を結ぶ愛情や絆は深いのにも関わらず、彼らの会話は常々丁々発止の緊迫した駆け引きのように見える。余裕のない自己保存本能のもたらす闘争のようにも見える。
さらには、過去からの宿題であったシャンドン・ファミリー(今では懐かしく、錆びて、朽ちているようにしか見えないネタではあるが)の生き残りの影が見え隠れする。すべてのピースが完全に収まるまでのあがきや苦しみによってページは埋め尽くされ、キャラクターたちは混迷し、化かし合い、労り合い、ばらばらになったり結束したりを繰り返す。そうだった、これがスカーペッタ・シリーズなのだったと、ぼくは改めて思い出す。
難物の仕掛けではあるが、科学捜査の手順や組織、施設、職員といったアメリカの事件捜査のある側面に対しては、誠実なスーパーなリアリズムに徹している。TVドラマ『CSI 科学捜査班』のようにシステマチックでスタイリッシュな追い風には乗らず、政治や組織対立を絡ませて地に足を着ける。男性作家以上にハードでリアルな男尊的世界を、女性の視点に強くこだわりながら描く女流作家の作品群であるからこそ、本シリーズは、世の、働く女性読者のシノプシスに働きかける何かがあるのだろう。男性読者にとっては、リアルでストロングな女性による女性のための、ともすれば恐るべき人気シリーズとして成長し続ける世界である、と言うべきなのかもしれない。
名品パスタ
日曜日で、ぼくも妻も休日。午前中は強風の吠え猛る音が響いていたが、午後になり小雨が降り始めた。風は吹いているが午前中ほどではない。
今日は久々の地中海レストランARIに。ヒルズ内で唯一のレストランだが、冬場は土日しか開いていない。おまけに夏では窓の外に見えるテラスには窓の半分を隠すほどの雪が積もっている。
でも、食事は極上。ぼくは牡蠣とエビと野菜のクリームソース・パスタ(手前)。妻は当別人参を練り込んだパスタのベーコン乗せ。メニューそれぞれにパスタが違うし、すべて手打ちだ。そこらのスパゲッティ専門店のように乾麺を使うわけではない。手がかかっている。
また自家製フォカッチャにデザート、コーヒー、どれをとっても余念がない。スローフードを求める冬の午後には最適の時間が、ここにある。
『ナオミとカナコ』
題材が複数女性たちによる殺人であることを、まだ買うかどうかもわからない書店のお客さんに、本書は帯で知らせてしまっている。幻冬舎という出版社は、二人の女性ナオミとカナコが、一人の男を殺すことを先に教えてくれるという売り出し方に決めたのだ、おそらく作者の了承のもとに。
最初からそんなことを教えてしまっていいのだろうか、と不思議に思いながらこの本を手に取り、なおかつお金を払って買って持ってゆくぼくという読者は、奥田英朗という作家のストーリーテリングの巧さも、あくの強いキャラクター描写も、物語の皮肉な展開や、あちこちに仕込まれた毒も、何となく免疫ができていて、だからこそ信頼がおけるからこの本に期待を賭けるのだ。
そしてこの本はそういう読者を全然裏切らなかった。前作『沈黙の町で』は、まるで宮部みゆき『ソロモンの偽証』と同じような設定でなおかつ出版時期も近かった。少し驚いたのだが、本書は女性たちによる殺人、だ。少し古い作品になるが桐野夏生の『OUT』は映画にもなったし原作が出た時の衝撃は忘れ難い。そういう話になるのかな、とまずは前半<ナオミの章>を読み始める。
もちろんすぐに殺人に至るわけではない。ナオミはデパートの外商部に勤務する外回りの職員だが、本来美術館に勤務するために学芸の資格も取っている。不満を抱えながら日々の仕事を抱えて顧客回りを繰り返す日々であり、実は最初は彼女のそういった人生の断面が延々と語られる。それが、なぜか面白い。
そして友人のカナコは夫のDVに苦しめられていることを知り、二人で男を殺そうということになってゆくのだが、そこに至る必然性というようなものが、何であるのか、不条理なものでありながら、選択肢のない隘路へと追い込まれている、現代日本の若い女性たちの生態、のようなものが書き込まれてゆく。隙がなくテンポの良い語り口で読者は彼女らの内なる不幸、衝動、計画、不安、決断などなどをともに体験してゆくことになるのである。
後半は<カナコの章>で、いきなり描写対象がもう一人の女性に移動する。よくある交互に移動しつつ、二人のヒロインを描き分けるのではなく、ある時点を境に二人の視点が入れ替わるという、なんだかあまり慣れない構成も、奥田英朗らしい仕掛けである。
静から動へと移るポイントがこの小説の読みどころである。何となくどこにもいる女性たちである彼女たちの誰にでも共感されてしまいそうな平凡な心理が、殺人という計画に踏み出すことで、異常なる世界へと彼女たちの人生をスライドさせてゆく、その縫い目が見えにくいところが、無理なく、自然で、凄みに溢れているように思う。
また映画を引き合いに出すが、アカデミー章に輝いた『アルゴ』の面白さを髣髴とさせるスリルを、この小説は実現している。詳細は描けないが、娯楽小説としての多くの要素を満たしてこの小説は静から動へと加速してゆく。じっくりと描かれる静があればこそ、ラストへの疾走感が生きている。構成の妙と、キャラクターの個性と、リアルな日常を舞台にして描かれる犯罪の質感と、すべてを味わって頂きたい、娯楽小説の鏡と言える力作である。